“人生の師との出会い”加藤浩晃先生① /未来を描く30人の医師のライフストーリー

医療4.0に登場する未来を描く30人の医師のライフストーリーに迫る”医療4.0×医師ラボ“企画。第1回目はこの本の著者である加藤浩晃先生にその半生を語っていただきました。

(この記事は6/23に行われた医師ラボ朝活vol.7の内容の一部を記事にしたものです)

加藤 浩晃(かとう ひろあき)

医師、デジタルハリウッド大学大学院 客員教授

遠隔医療、AI、IoTなどデジタルヘルスの政策提言にも携わる、元厚生労働省官僚・現役医師。1500件以上の手術を執刀、手術機器や眼科遠隔診療サービスを開発。「医療現場」「医療制度」「ビジネス」の3領域を横断的に理解し、企業の顧問・アドバイザーや厚生労働省医療ベンチャー支援事業サポーター、経済産業省J-startup推薦人などを務める。日本医療ベンチャー協会理事、アイリス株式会社取締役CSO、MRT株式会社社外取締役、東北大学非常勤講師、眼科専門医。

「人生の師」たちに出会って人生が変わった

僕は1981年生まれの37歳です。福井県出身の眼科医で、家族は奥さんと男女の双子の子供がいます。

人生の師」というのが今日のテーマです。今までたくさんの人に出会ってきたんですけど、その中で師とかメンターというべき人たちと出会って僕の人生は変わりました。

人って自分の頭で考えると自分が想像できるところまでしか成長できないと僕は思ってるんですね。でも、師匠とか上の人に引っ張り上げてもらうことで自分の見えていなかった世界まで吊り上げてもらえることがある。

そのような経験を僕はしてきたのでそれを今日は共有できたらと思います。

高校時代

学生時代から順に振り返って行こうと思います。

高校は福井県の藤島高校という160年以上の歴史のある公立高校でした。福井県には都会のような偏差値の高い私立高校がなく、公立高校が一番偏差値が高いような田舎でした。

高校時代は、あまり大きな声では言えないのですが、授業のやり方に疑問が湧いて学校にはあまり行ってませんでした。ではどうやって勉強していたのかというと、この頃初めて福井県に東進衛星予備校ができたんですね。

福井には3大予備校(駿台・河合・代ゼミ)がなかったので東進に通うことにしたら、その授業が衝撃的で。教え方がすごく良くて、なんだこれは!となってそれからそこに入り浸るようになりました。

東進にいる時以外は学校近くの図書館で勉強しながら、必要な時に学校に行くという生活をしていました。学校は3分の2の出席で単位がもらえるんですが、僕はかなりギリギリでなんとか卒業しました。

だけど当時の写真なんかを振り返ると、なんだかんだ楽しくリア充な高校生活を送っていたみたいです(笑)。

大学受験

それで受験は金沢大学医学部を受けるんですけど、僕はかなりの自信があって当然受かるだろうと思ってたんですけど、これがあえなく落ちるんですね。

僕は前期試験で絶対受かると思ってたので、「後期試験とか時間の無駄じゃないか」「後期は弱い奴がやるものだ」「前期で受かる人は後期受ける必要ない」とか言って尖っていて後期試験を出願していなかったんです。

合格発表の日もどうせ受かってると思って合格発表を見に行かず、家でサッカーのゲームをやりながら合格発表通知が届くの待っていました。

で、いざ届いた合格発表通知をみると自分の受験番号がない。これはどういうことだと。それで金沢大学の学生課まで文句を言いに行きました。「なんで僕が落ちているんだ、これは間違いだ」と。結局ダメだったんですけど(笑)。

 

福井を離れて京都での浪人、そして師との出会い

それでなんとか気持ちを切り替えて、一度はやってみたかった浪人生活というものをやってみようと京都の駿台予備校に申し込みに行きました。

申し込みに行った時、他の人たちはまだ後期試験の勉強をやっていたおかげで寮の申し込みはまだ少なく、とても良いところに入ることができました。他の寮だとみんな自転車で30-40分かけて通うところを、室町寮と言う予備校から5分ぐらいのとこを取れて楽に通うことができたんです。

そしてこの予備校で一生の師となるマニアックな先生との出会いがありました。これが英語教師の竹岡広信先生です。ドラゴン桜の英語教師のモデルとなった先生で当時はまだドラゴン桜が有名になる前でした。実はちょうど昨日会いに行ってきました。

この先生の授業を受けてすごく感じたのは「受験教育っていうのはプロがいるんだ」ということ。授業がとても良くて、これを高校生の時から受けてる人はそりゃ受かるわっていうのを実感しました。

そしてこの出会いが僕の人生の大きな転換点になりました。今でも時々思い出す竹岡先生の言葉がいくつかあります。これらは今の自分の一部を構成しているような言葉です。

この予備校での授業にとても感動して「教育ってすばらしい」、「自分も大学生になったら予備校講師をしよう」と思ったんです。

大学時代

そして浪人生活を終え浜松医科大学に入学しました。

なりたかった予備校講師になるため試験を受け、無事講師として採用されました。竹岡先生に憧れていたので、本当は英語の講師になりたかったのですが、英語講師はもう足りているからと数学の講師をすることになりました。そこで初めて教えることや伝えることの難しさを実感しました。

この予備校では生徒からの授業評価アンケートがあってそれが大きく時給に関係するんです。ありがたいことに僕の授業はすごく流行って、当時は月30万ぐらい稼いでいました。

100人教室が一杯になって立ち見が出たり、夏や冬の講習会が即日で締切になったりで、授業の評判が伝わって、参考書を作っている出版社の京都の文英堂から声がかかり、参考書の執筆をやるようになりました。

最初は自分の名前が出ない本を作ったのですが、その本がまた評判を呼んで2004年になんと初めて自分の名前で参考書を出版することができました。

木下茂先生と出会い、京都府立医大への入局を決める

医師としての診療科としての診療科の選択としては、僕は失明する人を救いたいと思って眼科医になることを決めました。

それで大学4年の時に、卒業後は大学病院に入局することを決め、どこにしようかと全国の眼科教室を回ってみることにしました。順天堂から始めて、東大、名古屋大、金沢大など回って全部で13もの大学を回りました。

その中で結局京都府立医大に決めたんですが、その理由の一つはここの眼科の先生たちの白衣姿です。他大学はTシャツの上から白衣を着ていましたが、京都府立医大だけシャツとネクタイの上から白衣と決められていたんです。これがとてもかっこよかったんですよ(笑)。

そして一番の理由は、後に人生の師匠となる木下茂教授がいたからです。京都府立医大の眼科教室というのは実は日本で1番大きくて、木下教授は世界レベルの稀代の名眼科医だったんです。世界で毎年1人しかもらえない賞があって、それを日本で3番目ぐらいにもらった先生で、眼科では世界的に木下茂を知らないとエセだって言うくらい有名な先生でした。

京都府立医科大学眼科学教室 木下茂教授

それにも関わらず木下教授は非常に気さくな方で、学会後のパーティーで僕が帰る術をなくしてしまった時、大阪の木下教授の実家に泊めてくれて朝方まで飲んだりしたこともありました。

この木下教授はすごく未来視点を持った方で、先生が見ている未来を近くで見てみたい、何を考えているのかを知りたいと思って入局を決めました。

この世界は自分が黒だと思っていても教授が白だと言ったら白と言う世界じゃないですか。自分が黒だと思っていたが白だと言われた時に、「この人が言うなら白なのかな」って素直に思えるような、そんな人の下で勉強したいと思って、それが木下教授だったんです。

だからここを選んだ理由は”人”でしたね。

加藤先生の怒涛の臨床医時代は?!この続きはこちら

 

〈文=佐々木祥貴(@7yoshitakas)〉

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