“自由と独学で突き進んだ学生時代”原正彦先生①/未来を描く30人の医師のライフストーリー

医療4.0に登場する未来を描く30人の医師のルーツと半生、その生き方に迫る”医療4.0×医師ラボ“企画。第7回目は原正彦先生にその半生を語っていただきました。

(この記事は9/22に行われた医師ラボ朝活vol.7の内容の一部を記事にしたものです)

原 正彦(はら まさひこ)

一般社会法人日本臨床研究学会代表理事、株式会社mediVR代表取締役社長、循環器内科医

2005年島根大学医学部卒。米国心臓病学会から世界の若手トップ5に3度選出された知識と経験を生かし、臨床研究から産学連携まで幅広く活躍。代表を務める株式会社mediVRは、経済産業省主催のジャパンヘルスケアビジネスコンテスト2018でグランプリ受賞。

自己紹介

今までキャリアパスというと一本の道を選択するのが当たり前と思われていましたが、僕はパラレルキャリア、何本もの道を走らせているので、こういうやり方もあるんだなということを参考にしてもらえればと思います。

僕はアカデミアでは島根大学の客員准教授、学会では日本臨床研究学会代表理事、ビジネスでは株式会社mediVRのCEOをしていて、他に診療所も持っています。

 

宿題は最初3日で終わらせ後はリラックスする小中学生

両親は中学教師をしています。父は薬剤師の免許を取っていて麻薬取締員だったんですが、僕が生まれてからは危ない職業ということで教師になったというキャリアです。非常に自由を重んじる教育方針で、簡単にいうと放置でした(笑)。

これがなかなかいい教育方針で、子供を育てるときに放置して育てるというのは最近良いと言われ始めているんですが、幸か不幸か、僕はこういった教育方針のもと育ちました。

小学校低学年の子供ってだんだん弁がたつようになってくるじゃないですか。それで親と交渉するときに”もう学校なんて行かない”と言ってみるんですが、親は”いいよ、行かなくても”って返してくるんですよ。”行かないで困るのはお前だからな”と言われて、多分小学校1年生くらいのときですかね、大泣きした覚えがあります(笑)。

昔からなんですが、自分がリラックスできる環境を作るのが大好きで、どれだけ自分の周りの環境を快適にできるかに一生懸命取り組んでいて、例えば夏休みの宿題は最初の三日で終わらせて残りはずっとリラックスしていました。ずる賢いとも言えるかもしれません。

だからキャリアとしても、30代までに全部終わらせて、あとはゆっくりしたいなと(笑)。

中学校ではバスケットボールを始めたんですが、庭が広かったので庭にバスケットゴールを埋め立て設置して友達を呼んで一日中バスケばかりやってました。あとはエレキベースを中学の頃からやっていて、これは後々英語学習に役に立ったと感じます。

こうしてバスケットボールや音楽ばっかりやっていたので、進路相談の時には中学の担任教師に”あんた高校に行けないよ”と言われて。

その時は全然勉強してなくてバカだったんですね。高校はエスカレーター式に全員行けるものだと思っていて、行けないなんていう可能性があることを示唆されてようやく勉強に目覚めたわけです。

ジェネラリストを目指した医学生時代

その時は無医村などが問題になっていて、自分は地域医療に興味があったのでその方向でやってみようと思ったんです。

もちろん判断はマルチファクトリアルなので自分の成績で入れる大学で、地域医療ができる大学ということで選びました。地域医療に興味があったのでジェネラリストになりたかった。

その目標に向けて勉強したことが今の自分のやりたいことにつながっていると考えています。

今は年間40くらいの全国の色々な大学出身の先生の研究の支援をしたり相談に乗ったりしているんですが、島根大学は結構自由な教育風土で学生自身の能力を伸ばす方針だったというのを今になってよく感じます。

例えばUptodateという医学の電子教科書は、僕が在学していた時、大学と交渉して導入してもらったんです。そういう風に学生の声が大学の上層部にダイレクトに届く環境でした。

他にも1年生の学生が救急の勉強をしたいと言ったら、救急科の医師と6年生とがコラボして勉強会が立ち上がるという自由な大学でした。

 

独学を貫いた医学生時代

先程も述べたように独学が僕のスタイルで、あとはリラックスしたいので全然授業に出ていませんでした。

ずっと独学でやってきたので、人のペースで咀嚼できない時についていけないんですね。だから自分で独学で勉強する必要があった。例えばある部分ではすごく理解が遅いのにある部分ではすごく速い。だから自分でやってリラックスするという手法だったんですね。

島根大学は感染症の先生が有名で、度々講演にきていたんですが、やはり海外で活躍することには学生ながら憧れを持っていました。

それで4年生の時に使う教科書を全て英語のものにしたんです。英語だと試験範囲が終わらず成績はガタ落ちでした。だから全部ギリギリ合格の60点でした。13年生までは成績でいうと毎回トップ10くらいには入っていたのに、4年になって成績がいきなり悪くなってしまいました。英語を勉強していたのでしょうがないですが。

その時はまだ海外留学というものに憧れていて、USMLEを取るか、英会話が出来るようになろうと思いました。USMLEをとっている人は周りに結構いたんですが、海外で勝負するにはまず英語を話せないといけない。

色々話を聞くと、日本の医師免許を取って海外に留学する方が出て行く方法としては多いし簡単なので、英会話の勉強を5年生の時にがっつりやることにしました。

ジェネラリストになりたい、海外で活躍したいという野望を持ちつつ医者になったわけです。

臨床研究で海外へ

初期研修は神戸赤十字病院という200床程の病院を選びました。ジェネラリストを目指していたので色んな手技もしたかったですし、自分が主治医になれる病院を選びました。

そこで研修している中で循環器が好きになったので、循環器内科でかつジェネラルに学ぶことのできる大阪労災病院に行きました。

そして臨床研究にも興味があったので大阪大学の大学院に行って、途中で大学が面白くなったので学会を立ち上げて、居場所を作ってからやめたというかんじです。

大阪大学にいる間には、America Heart Assosiation / Americal Collage of Cardiology という循環器の中でもトップレベルの学会で世界若手トップ5に3年連続で4回選ばれました。

この賞を取るのはだいたい海外の留学先か、もしくは基礎研究で取るかという2パターンしかなかったんです。

そこで僕は日本のデータで、しかも日本の臨床のデータで勝負したんです。その点がかなり他と違ったので、講演やサポートの依頼がその後よく来るようになりました。

 

僕自身は臨床研究でキャリアをあげるという選択をとりました。

2017年は論文を18編も書きました。これは日本のMDのトップ0.01%、一万人に一人くらいしかできない。日本の臨床データだけでは普通18編も書けないんです。

他にもVRを使ったリハビリテーションの医療機器を作っているmediVRという会社をやっていて、今年ジャパンヘルスケアビジネスコンテストで優勝させてもらいました。このコンテストは今年から始まったもので、国の特待企業制度で、日本から92社を選んで国がバックアップしていこうというプロジェクトです。

これが僕のライフストーリーになります。僕のは参考までにして、今回の一番のテーマは皆さんのキャリアパスについて考えていこうということですね。

 

 

原正彦先生の”好きなことを仕事にする掛け算の法則”:この続きは近日公開です!

 

〈 文 = 江崎 聖桜 〉

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